創業者長井幸三誕生
(1918年~)
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創業者 長井幸三誕生
米騒動で日本全国が大騒ぎになった、1918年(大正7年)の師走のことです。群馬県碓氷郡八幡村(現在の群馬県高崎市八幡町)に男の赤ん坊が生まれました。農業を営む長坂家に生まれた元気な三男坊は、幸三と名づけられました。
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体格のハンディ
幸三は生まれつき体が小さかったため、野良仕事の手伝いで、体の大きな者にはどうしても勝てません。「いったいどうしたら、体の小さな自分が、身を立てることができるのだろう・・・」そんな思いを抱きながら、幸三は少年時代を過ごしていました。
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幸三の技術屋人生の始まり
成長した幸三は、やがて単身上京します。昼は機械工場で働き、夜は疲れた体に鞭打って日本大学高等工学校機械工学科(現在の工学部)で必死に勉強するようになりました。9人兄弟の長坂家に生まれ育った幸三は、働いて自らの学費を稼ぎ、大学で高度な技術を身につけることで、ハンディを克服することを決心したのです。
技術屋としての成功
(1940年頃~)
技術屋としての頭角を現す
二足のわらじを履いた幸三は、次第にめきめきと頭角をあらわします。大学卒業後も、機械工場で技術研究に没頭する毎日。会社の先輩であった日本特殊鋼株式会社 (現在の大同特殊鋼)技師・谷昌徳氏に懇願され、谷氏の編訳書「標準金属切削便覧」(1942年刊)の大半部分の執筆を任されるほどの若きエースになりました。
日本特殊鋼時代の業績
幸三が日本大学を卒業し、日本特殊鋼に就職したのは1940年(昭和15年)。日本が対米戦争を始めようとしていた頃にあたります。勤務した日本特殊鋼は、陸海軍用の機関砲、山砲、榴弾砲などを生産し、幸三は切削工具や治具の設計を行っていました。仕事の中で、砲身の上下に使う歯車の製作に工夫を凝らし、外注から内製に切り替えることに成功します。
用いたアメリカンフェロー歯切盤は、高精度の工作機械を輸入に頼っていた戦前の日本では、貴重な機械でした。この業績で幸三は社長賞を受賞しています。当時から工作技術に対する独特の発想と、それを支える情報収集と研究に熱心で、翻訳を手伝い、専門用語を考案したりしました。たとえば“Free Cutting STEEL”の訳語である「快削鋼」は、幸三の創案です。
失意の帰郷
大東亜戦争敗戦1年程前の1944年(昭和19年)夏、我を忘れて技術の道に邁進していた幸三は、過労がたたり、体を壊してしまいます。25歳の若者とはいえ、体力を過信していたことを深く反省した幸三は、郷里へ帰ることをついに決意します。
郷里の八幡村では、親兄弟が幸三の帰郷を暖かく迎えてくれました。工場など何もなく、西から順に妙義、榛名、赤城の上毛三山を背景にして、ただ田畑の広がる上州の穏やかな風景が、疲れきった心身を癒してくれたでしょう。数ヶ月静養すると、すっかり体調もよくなってきます。じっとしていられない性格の幸三は、百姓仕事の手伝いを始めました。
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長井マサ子との結婚
終戦間もない1947年(昭和22年)、長坂幸三は、大工の長女であった長井マサ子と結婚します。長井家には跡取り息子がいなかったため、幸三は長井家の婿養子になりました。幸三は当時、小さな鉄工所に職を見つけ、勤務していました。
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長井製作所の創業
1950年(昭和25年)9月、長井幸三は、個人事業で長井製作所を興します。敷地面積400平方メートル、工場263平方メートル、事務所50平方メートルで歯車及び機械部品の製作を開始しました。
1954年(昭和29年)には、綴針製造器の試作で取引の始まった山田興業(現在のマックス)から、コンケープカッターおよび鉛筆削り機の削刃の試作製作を依頼され、大成功を収めました。素材加工から焼入、パーカライジング、刃付研磨と一貫生産を行ったのです。これらに用いる炉や刃切機械も設計製作し、最盛時は日産5,000個の削刃を出荷しました。
長井精機設立
(1955年~)
長井精機会社設立
1955年(昭和30年)12月、資本金70万円で有限会社長井精機製作所が設立され、長井幸三は代表取締役に就任しました。1961年(昭和36年)3月、業務拡大のため高崎市江木町に工場を移転します。
この頃から、タービン動翼の加工を既に始めています。長井精機の優れた加工技術に注目した石川島芝浦タービンから、ガスタービン翼製作を依頼され強化することになります。タービン翼の生産力増強のかたわら、各種の製造技術の考案に力をつくしました。
生産現場でオートメーションが注目されていた時期に、専用機を導入するのでなく、従来使っていた機械をなるべく生かしながら、技術の組み合わせやノウハウの活用で、オートメーションを実現する「LCA」(ローコスト・オートメーション)を成功させました。
黄綬褒章を受章した長井幸三
1977年(昭和52年)11月の労働大臣表彰に続き、長井幸三は1981年(昭和56年)に黄綬褒章を受章します。皇居で妻マサ子と共に昭和天皇に謁見しました。
工場拡大移転
(1981年~)
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八幡第二工業団地に工場移転
1981年(昭和56年)10月、手狭になった高崎市江木町から上豊岡町・八幡第二工業団地内に本社工場を移転しました。敷地面積は3,970平方メートル(以前の1.8倍)、建物は1,281平方メートル(同1.2倍)になりました。
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群馬県中小企業モデル工場に指定
1983年(昭和58年)4月、群馬県中小企業モデル工場に指定されました。以降、更新を重ね、20年以上にわたって指定継続中。
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株式会社化
1987年(昭和62年)9月、株式会社長井精機へ組織及び社名を変更しました。資本金は3,000万円でした。1989年(平成元年)9月には、資本金5,000万円に増資しています。
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工場増築
1991年(平成3年)7月、工場を1,294平方メートル増築し、2,575平方メートルと約2倍にしました。
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社長交代
1991年(平成3年)10月、代表取締役に長井英隆が就任しました。長井幸三は取締役会長になりました(その後、2003年退任)。
タービンブレードへの特化
(1990年頃~)
不採算品撤退・タービンブレードへの特化
その後、高度な技術・ノウハウを必要としない部品加工から撤退をし、タービンブレードに経営資源を特化します。世界最大の発電所である、東京電力柏崎刈羽原子力発電所の、2・4・6号機高圧段側ブレードを手がけました。
- タービンブレード取引先拡大
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- 1989年(平成元年) 日立製作所
- 1992年(平成04年) 三菱重工業
- 1995年(平成07年) 川崎重工業
- 1997年(平成09年) 東芝
- 2000年(平成12年) 荏原製作所(現・荏原エリオット)
- 2004年(平成16年) 新日本造機、三井造船
3D-CAM導入
1999年(平成11年)、長井精機初の3D-CAMとしてCS-CAM導入を果たし、NCデータ内製化を達成しました。2004年(平成16年)には、製品の更なる高度化に対応するため、Mastercamを導入しています。
世界の重電需要に応える
旧共産圏諸国をはじめとして、世界的に重電需要が高まる中、2005年(平成17年)は約9,000万円の設備投資を実施しました。日本経済新聞にも大きく取り上げられ、産業界から注目を集めました。
2005年(平成17年)12月8日に営業運転を開始した、東北電力東通原子力発電所のタービンブレードの製造も手がけています。同発電所は、2006年(平成18年)2月1日付 産経新聞1面の特集「資源小国の挑戦」に大きく取り上げられました。発電した電力の半分は首都圏に送られ、エネルギーセキュリティの上で大きな役割を果たしています。
長井精機設立50周年記念
1955年(昭和30年)12月に有限会社長井精機製作所として設立され、2005年(平成17年)12月で長井精機は50周年を迎えました。2月4日、設立50周年記念パーティをホテルメトロポリタン高崎にて開催しました。半世紀の歩みを振り返り、今後もますます社会に貢献する会社であり続けることを確認する有意義なセレモニーとなりました。